災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

原発事故のあの日から

ペンネーム A. Y.
原発事故当時に居住していた市町村 福島市
避難について 平成27年3月まで岡山市に避難。その後福島市に帰還。
家族構成 夫、妻、子ども2人
投稿区分 母親である


 原発事故のあの日から、とても不自由な子育て環境から逃れるように福島を離れ生活しました。震災当初、各地を転々とした生活は生後3か月の子と、4歳の子を守ることで精一杯で今後の生活を考える余裕もなかったように思います。

 母子避難先での生活は、カルチャーショックもあり、だいぶ慣れたな...と感じるまで約2年かかりました。移動してすぐに、車に傷を付けられ相当なショックを受けました。報道では聞いたことがありましたがまさか自分が...という思いと、子どもたちにこの動揺を察せられないよう気を付けながら生活しました。それでも、不自由な子育てから逃れられること、子供達を自由に外遊びや山や海に連れて行けるということ、産地を気にせず買い物や食事を食べさせられるという安心が私をほっとさせてくれました。
 私自身は、仕事をもったことでコミュニティが広がり、地元の人とのつながりも出来、とても助けられました。帰還した今でも、その時の仲間とはお付き合いさせていただいています。
 福島に戻り、子どもが不登校となりました。ここから、家族みんなが苦しみました。5年間、別居生活をしていた夫は親としての自覚を取り戻すことにも戸惑っていたことと思います。子どもにとって、震災後の数々の環境の変化は、相当心の疲弊をもたらしていたことでしょう。当時の私は、恥ずかしながら子どもの思いに共感したり、理解しようとはしていませんでした。子どもは、環境にすぐに慣れるだろう...親の考えに従うのが当然...いつの間にかそんな考えになっており、大切なことを忘れていました。子どもは、一人の人格をもった人間であり、私とは違う考えを持っているということ。当たり前のことですが、そのことに気付かせてくれたのは不登校を経験した長男です。子どもが今何を考えて、何を思っているのか、どうしたいのか、否定せずにありのままを聞くようにしました。子育てのやり直し、家族のやり直しの生活はとても苦労しました。そんなとき、一人の先生に出会いました。その出会いがあったおかげで、私自身が変わり、子供が自分自身で問題を解決していくようになりました。これからも、私自身が子どもから色々なことを学びながら親となっていくのだろうと思います。原発事故で失ったものはたくさんありますが、辛い経験からの様々な学びが、今後の福島の復興の力になっていくことと思います。

▲ ページ上部へ戻る