災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

部活動の真っ最中でした。

ペンネーム
D. S.
原発事故当時に居住していた市町村 福島市
避難について 特になし
家族構成 父、母、弟
投稿区分 学生である


 私は震災発生当時中学生であり,部活動の真っ最中でした。突然経験したことのない大きな地震に見舞われ友人とともに何も考えることができずに地面に這いつくばることしかできなかったことを今でも鮮明に覚えています。帰宅した後は飯坂の祖父の家に親戚が集まりましたが電気がつかない闇の中,余震で揺れ続ける状況で,カップラーメンは喉を通らず,外が明るくなるまで一睡もできなかったことから今思えば私は思った以上に震災のショックが大きかったのかもしれません。

 幸運にも翌日にはもう一人の祖母の家で電気が復旧し,そちらに移動しました。そこで初めて沿岸部の津波による壮絶な被害状況や原発事故のニュースをテレビ越しに目にしました。当時の私は原発や放射能についての関心など無いに等しく,被爆などの危険性についても現実味を味わえずにいました。私が住んでいた福島市では避難するほどの被害はありませんでしたが,震災発生から一週間ほどは水や食料が手に入りづらく,一向に放射線被害に関するニュースが飛び交い,精神的に不安で押しつぶされそうになりました。

 それからは学校が5月くらいまで休みになり,その間は友人や外で遊ぶような機会もなく,水なども前よりは確保できるようになったとはいえ,やや不自由とも言える生活が二カ月ほど続きました。その間も放射線や津波に関する震災被害の深刻さを物語るニュースは途切れることはなく,ようやくこれは現実なんだと落ち着いて受け入れることができるようになってきました。放射線についてはいやでも知ることになり,どこもかしこも土壌の入れ替えや測定機の設置などが行われました。幼いころに思い入れのあった公園の遊具や場所なども続々と消えていき,ずっと住んでいた場所なのにまるで引っ越した直後のような見知らぬ場所になってしまったところもありました。

 今では,市内で震災の爪痕を感じるような場所はほとんど無くなりつつありますが,あの震災によって確かに私たちの生活や環境は大きく変わったのだと,ときどき思い返す時があります。私は当時の恐怖や不安感を二度と味合わないためにも,以前よりも対策は入念に行うようになりました。しかし,どれだけ対策をしてもまたあのような大規模な地震が起きたらどうしようと思うこともあります。それだけ震災で受けたショックは大きかったし,恐らく生涯あの出来事を忘れることはないのだろうと振り返って改めて思いました。

 

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