ペンネーム | : | N. Y. |
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原発事故当時に居住していた市町村 | : | 二本松市 |
避難について | : | 津波や家の損壊などの被害に遭わなかったので避難せず |
家族構成 | : | 父、母、妹 |
投稿区分 | : | 学生である |
地震発生当時,私は中学1年生でありその日は学校の卒業式であった。午前中で卒業式が終わり帰宅した後,自宅に一人テレビゲームで遊んでいた。地震が発生したのはその時である。私が住んでいる地域では震度自体は大したことはないが,地震の頻度は多かった。その地震は異様に地鳴りが大きくそして長かった。若干の違和感はあったが,まあいつもの地震だろうと高をくくっていた。いつまでも収まらない地震,だんだん揺れが大きくなっていった。私はその時,人生で初めて死の恐怖を感じた。揺れが収まるまでは,茶の間の炬燵の中に隠れて身を潜めた。家に駆けむように帰宅した母と互いに無事を喜んだ。その後,母は当時小学6年生だった妹を迎えに行った。妹は,学校の校庭で寒空の下友達と身を寄せ合い,一部崩壊した学校の校舎を見ながら泣いていた。 それからは息苦しい生活の始まりだった。生活物資を買いに行こうにも道路が陥没していたり断水したり,地域によっては電気が使えなかった。余震が発生するたび,また大地震がくるのではないかと怯える日々。そんな中でも,放射線被爆による影響が一番辛かった。被爆というのがよくわからないまま,ニュースでなるべく外出は控えるように言われ,また避難を促された。当時,父親が単身赴任で仙台へ行っていた。父の安否がわかったときは家族皆で安堵した。しばらくして学校が再開してからも震災前と比べ変化したことが多々あった。体育ではプールの授業が無くなり,部活動ではしばらくの間外での活動を控えるように言われた。学校で甲状腺の検査があり,各家庭でも被ばく検査を行うように強いられた。 高校に進学して自分の周りの生活が落ち着いた頃でも,震災復興が終わらず,また福島は風評被害に苦しんだ。一度,津波被害があった地区を見に行ったことがある。衝撃的だった。どこまでも辺り一面田んぼが広がっているその上に,大きな船が鎮座していた。福島は元通りに戻るのだろうか,そう漠然とした不安に駆られた。 大学生になった今でも,時々不安に思うことがある。地震だけではなく,最近では台風や豪雨での被害も甚大である。福島がというよりも,日本が被害に遭うたびにその不安が一層強くなる。これからの日本は大丈夫なのだろうか。そう思わずにはいられない。 |