災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

東日本大震災が起きた当時

ペンネーム K. G.
原発事故当時に居住していた市町村 福島市
避難について していない
家族構成 父,母,兄
投稿区分 学生である


 東日本大震災が起きた当時,私は小学5年生でした。ちょうど小学校で卒業式の予行練習行っていて,上級生全員と多くの先生が体育館にいました。地震が起きると学校の中庭に速やかに移動するよう言われ,慌てて体育館を出ました。その後,グラウンドに集まり点呼確認をし,保護者が迎えに来るまで待機していました。実際に私の親が迎えに来たのは1時間ぐらいであったと思いますが,その時は永遠に来ないのではないかとひどく不安に感じたことを覚えています。

 家族と合流してから大変だったことは,断水が起きたことでした。停電もしたのですが,私の住んでいた地区は1日で復旧しました。しかし断水が復旧したのは約1週間後であり,それまでは自由に水を使うことが出来ませんでした。近くで水を配っているお店があったので,そこまで家族と小さいタンクを数個持っていき,満タンに入れそれをまた家まで運びました。いつも使っていた水道があんなにも便利であったと気付いた時でした。

 停電が復旧してから,テレビで何が起こったのか,今何が起きているかを知りました。流れるのは大きい津波や原発の事故が起きたときの映像がほとんどで,番組の途中で流れるCMも決まったものばかりであり,その異常性にまた不安を感じていました。また,原発事故が起きた直後は放射線における危険性や注意すべきことはあまり言われず,直ちに何かをしなきゃいけないということはないと報道されていました。そのため,できることが限られていた私たちは,積極的に家の外に出て水をもらってきたり飼い犬の散歩をしていました。

 その後,放射線の線量の高さや危険性などが次々にわかり,報道されるようになりました。それと同時にデマが広がり,被爆地域に対する風評被害や悪質ないたずらが目立ち始めました。私の知り合いも,ほかの県に出かけたときに理不尽な仕打ちを受けたと聞きました。この震災で私が最も辛かったのはこの事実でした。ほかの県に避難することも人に助けを求めることも,このようなことが起きてしまうとできなくなります。根も葉もない噂からこのような事件が多く起こったことが,とても悲しくなりました。

 もう2度と大震災が起こらないことを祈ります。ですが,自然現象は避けられないものがほとんどであることも事実です。またこのような事故がどこかで起きたときは,多くの人がデマに惑わされず正しい情報を知り,互いに助け会うことを望みます。

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