ペンネーム | : | Y. K. |
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原発事故当時に居住していた市町村 | : | 白河市 |
避難について | : | 避難していません |
家族構成 | : | 父と母との3人家族 |
投稿区分 | : | 学生である |
白河市は海に面しておらず,私の住んでいた住宅地は大きな岩を削った場所に立てられ地盤も固かったことから,地震による津波や地盤隆起などの大きな災害はありませんでした。しかし電気,ガス,水道のライフラインはすべて使えなかったため,ろうそくで寒さをしのぎ,ほとんど品物のない店で限られた食料を手に入れ,水は給水所や井戸のあるお宅から井戸水を分けていただくような生活が何日も続きました。テレビをつけてもすべて同じようなニュースと同じCMが流れ,テレビ好きだった私も,当時は数日間テレビを見ることが嫌だったことを強く覚えています。また,当時小学6年生だった私は,学校内のオープンスペースで同級生と先生と保護者のみの簡易的な卒業式を行い,友だちとの別れを惜しむまもなく中学校に入学しました。中学に入ってからは楽しい学校生活が始まると期待していましたが,地震や原発からの避難で同級生が転校したり,パンと牛乳しかないような給食が続いたりしたことで精神的ストレスが溜まり,お腹を壊してよく早退・欠席を繰り返していました。しかし,クラスの友だちや部活の仲間が心配して声をかけてくれたり,相談に乗ってくれたおかげで学校に行くことが楽しくなりほとんど休まなくなっていました。中学時代の友だちとは今でもとても仲がよく,決して震災を肯定するわけではありませんが,被災時期を一緒に乗り越えたことによって友だちとの絆を深めることができたのではないかと考えることがあります。 また浜通りに比べ大きな被害を受けたわけではありませんが,震災後の新聞やニュースなどで福島が"被災地"であることを大きく報道しているものを目にし,被災地に住むものとして心が痛みました。「津波による被害者がこんなにもいる」「放射線をこのくらい浴びると健康被害にあう」など,福島がいかに危険かを伝えているような報道ばかりが取り上げられていたからです。このような不安をあおるような記事は県外の人はもちろん,福島に住んでいる私達まで心配になってしまう恐れがあり,精神的ストレスを増やしてしまうのではないかと感じました。 |