災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

震災当時小学5年生

ペンネーム 杜王町民
原発事故当時に居住していた市町村 宮城県気仙沼市
避難について 床上浸水した自宅の2階で約1か月生活
家族構成 父・母・兄・祖母
投稿区分 学生である


 私は震災当時小学5年生であり,地震が起きた瞬間は小学校の教室で授業を受けている最中でした。私たちは,揺れが収まるとすぐに学校裏の高台に先生の指示のもと全校で避難しました。それから少しして,近所の家の方が私を迎えに来てくださり,高台を降りて,通学路である小さな橋を渡り,学校から徒歩10分ほどの自宅へ帰りました。その時にはすでにテレビはつかず,外では大津波警報の防災無線が鳴り続けている状態でした。その時家には祖母だけがいたので,私たちは二人で急いですぐ近所の神社へと避難しました。私たちが避難し終えて数分後,神社から町を見下ろしていると,ついさっき渡ってきた川が津波の影響で氾濫し,瞬く間に自宅に流れ込んでいきました。

 それから約3週間後,校舎の復旧も終わり,延期されていた当時の6年生の卒業式が行われることになりました。その時私は初めて,同じ学校の生徒が3人,津波の犠牲となっていたことを知りました。3人は兄弟で自宅が海の近くにあり,震災の時には私と同じように,避難していた学校裏の高台に迎えが来て家に向かいました。当時は,津波があれほどまでに大きなものが来るということが先生も含めて多くの人が予想できておらず,生徒3人はその帰宅途中で津波にのまれ戻らぬ人となりました。その話を聞いたときに私は鳥肌が立ちました。私とそれほど年の違わない幼い子が未来のすべてをいきなり奪われてしまったということを感じるとともに,私も少し避難する時間が遅れていれば同じようなことになっていたかもしれないと思いハッとしました。私が自宅に帰るまでに通った道のりも,津波の影響を大きく受けたところだったからです。そう気づいてから,私はその事が忘れられなくなり,精神的に不安な毎日が続きました。震災から8年以上が経った今でも当時のことをふと思い出すことがあります。私は時々,ネットにアップロードされている数々の震災の動画をいくつか見ることがあります。それは,震災が起きたことを自分の中で風化させず,現実にしっかりと向き合っていくためです。被災した私がするべきことは,あのような被害が二度と起こらないようにすることだと考えているので,地震と,それに伴って起こる津波の恐ろしさを後世に伝えていきたいと思います。

   

▲ ページ上部へ戻る