災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

私は当時子供と

ペンネーム ゆきんこ
原発事故当時に居住していた市町村 二本松市
避難について 原発事故日の翌々日から一週間だけ会津若松市に避難
家族構成 4人家族
投稿区分 母親である


 私は当時子供と二本松市にあるアパートに住んでいました。いつもと変わらない生活を送っていた時、身に覚えがないほどの揺れに気持ちは半分疑いを持ちながらも幼い(当時3歳)娘とこたつの下に隠れたのを覚えています。しばらく揺れは続く中、夫が通常より早く帰宅、息を切らして帰ってきた様子を見てただ事ではないと焦りを感じました。その日は電気が通らなく食事の準備もできずコンビニに夜掛け込んだんです。暖かくもないこたつを布団にして三人で寄り添い眠りました。翌日は普通に戻るとばかり信じ。翌日私は子供をつれてすぐ近くの公園に行きました。何も知らずただ気分転換のつもりだったかもしれません。そして夕方親戚からまだ線量がマシな会津に避難するよう言われました。そのときの、日中子供を連れて公園に出てしまった後悔は今も根にあります。しばらく1週間避難していましたが、仕事もあり帰宅、それからは窓もあけず家にこもって過ごしました。小さな子供がいる家は沢山玩具があるので何とか誤魔化していけそうだと思われがちですが、小さな子だからこそ外遊びが凄い刺激を受けて生活が充実すると思います。私も娘もこもる生活にだんだんとストレスを感じていきました。助けを求めるかのように色々な玩具も溢れる程買いました。一年が過ぎ水も野菜も取り寄せていました。お金もかかりました。娘が幼稚園に上がる際に福島市に引っ越しし、その後もまだ用心深く生活を送っていたと思います。石も土も触らせてはいけない、公園もどこに線量強いものがあるか分からない、もしかして自分も影響があるかもしれない、次の子供を考えたとき夫と沢山相談しました。そうしてなかなか決められるような状態じゃない現実から抜け出せたのが5年後でした。奇形ではないか、子供が生まれるまで、ちゃんと確認できるまでも原発の影響で不安になりました。周りには新潟に避難した友達もいて取り残された悲しい気持ちと子育ての不安と戦ってきました。今子供達が成長し大きくなっても、またいつかなんらかの形で影響が有るかも分からないと脳裏に不安を残して現在いるところです。

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