災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

中学2年生の時で,その日私は

ペンネーム F.E.
原発事故当時に居住していた市町村 宮城県仙台市
避難について なし
家族構成 父・母・私
投稿区分 学生である


 東北地方太平洋沖地震が発生したのは私が中学2年生の時で,その日私は友人と3人で遊びに出かけていました。地震が収まり,まずは両親に連絡を取ることを試みましたが,なかなか繋がらず,とにかく家を帰ることを最優先に行動しました。そして無事家族と合流し一息ついた頃,津波や原発事故の情報が耳に入ってきました。幸い津波は隣の学区で止まり,直接的な被害を受ける事はありませんでした。一方,原発事故の影響は目に見えるものではなく,真偽が定かではない情報が飛び交うなかで漠然とした不安感を感じざるを得ませんでした。翌日以降,地震の影響が少しずつ落ち着いていくのに対して,原発事故に対する不安感はだんだんと増していきました。情報がはっきりとするまでは放射線の影響を避けるためなるべく外出を控え室内で過ごすようにしました。

 それから約4年後,私は福島大学に進学しました。進学を決める際に,放射線の影響は大丈夫なのかということをよく聞かれましたが,その頃には放射線量は問題なく基準値以下になっていました。しかし,実際に福島に来てから感じたのは,農作物に対する風評被害や人口の低下,観光客の低下など原発事故が残していった数々の被害でした。県内ではそうした被害に対して,ボランティアや地域活性化イベントなどの活動が意欲的に行われていますが,原発が残した影響はまだぬぐい切れてはいません。また,放射線の影響には10年単位の時間が経過してから現れるものもあります。それを心配する人たちの不安を解消することは不可能なのです。

 このように,原発事故は取り返しがつかない影響を福島にもたらしました。福島の住民は未来永劫この影響と向き合っていかなければなりません。私たちにできる最初の1歩は,原発事故のことを決して忘れないこと。そして,その影響がまだ残っていることをしっかり知っておくことなのです。

 

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