災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

東日本大震災時は小学校6年生で、

ペンネーム
K.
原発事故当時に居住していた市町村 福島県郡山市
避難について なし
家族構成 父・母・弟・妹・妹
投稿区分 学生である


 東日本大震災時は小学校6年生で、卒業式の練習真っ只中だった。地震によって体育館のガラスが割れたり、天井にはまっていたボールが落ちてきた。一度落ち着いて、その間に校庭に避難した。外は雪が降り出す一方で余震が続いており、小学生の私はどうしていいか分からず先生の指示に従い、外で泣いている同級生と待機するしかできないでいた。余震も落ち着いた頃保護者の送迎組と集団下校組で別れ、上履きのまま何も持たず帰路に着いた。途中道路が陥没したり、電線が落ちたり、瓦礫が落ちたりといつもと異なる景色に地震の凄さを実感した。家も水槽が倒れたり、棚が倒れたりで玄関までしか入れず、最低限靴などをもって近所の祖父母の家に移動し、数日間は祖父母家で過ごすことになった。テレビで震災による被害、津波による死者が報道され、東日本大震災の恐怖を子供ながらに感じていた。その中で流れた原発事故の報道は、正直何のことか分からないでいた。原発という聞きなれないワードとそれによる今後の被害が全く想像できなかったからだ。ニュースを見てまず分かったのは、外に出ることを控えたほうがよい、つまり浴びてはいけないもの、ということだった。そして近い地域が避難区域になり、郡山市の私も買い物等以外はほとんど家からでる機会が無くなっていた。

 

 実際に私に起きた被害は大きなものではなく、そんなにかからず自宅での生活が戻ってきたが、卒業式は小さな多目的室で短縮し実施。中学の入学式もずれ込んだり、中学では放射線測定用の道具が渡されたり、甲状腺検査を行なったりとさまざまな対策が行われていた。全く放射線に関する知識がない子供だったが、中学ですぐに放射線について説明を受け、福島県の原発による影響をここでようやく理解したと思う。

 

 今となっては、放射線を気にすることも無くなり、震災に関する記憶は風化されて来ていると感じる。しかし、思い返すと、分けもわからず、大人の言うことに従うことしかできなかった一方、大人の動きを見てきたからこそ、地震が多い日本でいつ地震が起きても対応できるよう、震災の記憶を風化させず、活かしていくことが求められると改めて感じた。

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