災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

東日本大震災当時、

ペンネーム M.
原発事故当時に居住していた市町村 川俣町
避難について 避難なし
家族構成 母・父・祖父・祖母・弟2人
投稿区分 学生である


 東日本大震災当時、私は小学校6年生でした。帰りの学活の最中で宿題や連絡事項を聞きながら間もなく帰ろうとしていたところでした。担任の先生が話をしている時に、突然今まで体験したことのないような大きな地震が発生しました。窓の外を見ると庭の池の水が溢れるほど激しく揺れ、校舎の柱や地面にはひび割れも生じていました。先生方の顔色を変えて慌てた様子や揺れの大きさから、ただ事ではないと当時は感じました。

 その後は先生や生徒全員で校庭に避難し、保護者が迎えに来てくれました。家に帰ると電気やガス・水道が全て止まり、全て復旧するまでにはしばらくかかりました。復旧するまでの間、給水タンク車に水をもらいに行ったり、店にガソリンや食料等を買い出しに行ったことを今も覚えています。電気が通るようになりテレビをつけると被災状況のニュースや地震速報,警報ばかりが流れていました。数分おきにくる余震や警報の音に気を休める暇もなく、疲労も溜まりうんざりしていました。 

 地震や余震が落ち着くと、福島県は今度は原発による放射線の被害で悩まされました。私の住んでいたところは避難までの数値ではありませんでしたが、その後の中学校生活は屋外での活動を制限されたり、1人1人に計測バッジやマスク等を配布されました。また、福島県は放射線の被害を受けたと全国の方々から風評被害を受けるようにもなりました。

 

 私自身は当時、津波や原発事故による放射線の直接的影響はあまりありませんでした。しかしそれでも8年経った今も震災時の様子は鮮明に記憶しているし、自然に対する恐怖心もあります。実際に津波の被害に遭われ家族や故郷を失くされた方、放射線被害により今も故郷に足を運べない方々の苦痛は計り知れません。年月が経つにつれ世間からだんだんと記憶が薄いものになってきていますが、今でも苦しんでいる方々や復興に向けて働きかけている方々がいらっしゃること、震災の恐ろしさを覚えておかなければならないと思います。

 

 私は将来医療職者になります。当時全国のたくさんの方々から支えていただいたことや自分自身の震災経験を活かして、今度は自分が手を差し伸べられる人になれるよう今後も頑張っていきたいです。

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