災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

地震発生時、病院の託児所に勤務していました。

ペンネーム M. K.
原発事故当時に居住していた市町村 いわき市
避難について 避難せずいわき市で過ごす
家族構成 主人・義母・子ども(高3(双子)中1)
投稿区分 母親である


 地震発生時、病院の託児所に勤務していました。その時間会議があり託児所の隣にあった幼稚園(同経営)にいました。急いで戻ると他の職員の判断で窓から外に避難しているところでした。0~2才児だったので激しい揺れのため地面を転がっていました。急いで抱き集めました。2階の窓のサッシ戸が何枚も落ちて来ました。その光景を思い出すと涙が溢れてきます。その後、公園へ、コミュニティセンターへと避難しましたが子どもたちは何度もの揺れに怖がりベビーカーから降りようとしませんでした。

 病院の託児所ということもあり保護者もなかなか迎えに来ることも出来ず元気な姿を確認しては病院へ戻っていきました。私も自分の子どもと連絡がつけられず不安でいっぱいでしたが、園児が全員帰ったあと20時ぐらいに友達の家にいた我が子を迎えに行くことが出来ました。次の日、原子力発電所が爆発し周囲の人たちは、避難していきました。我が家は心臓が悪く働けない主人だったので、生活苦ということもあり、滋賀県の知り合いが「早く子どもだけでも飛行機に乗せてよこしな」と言ってくれましたが、そのお金がありませんでした。放射能について理解がなく、これからどうなるのか、子ども達を守ってあげられない情けなさで気持ちが張り裂けそうでした。一軒もお店は開いてなく人も車もありませんでした。自宅に居た人たちは食料や物資の支給もありませんでした。

 地震での被災地も映像でたくさん見てきましたが、放射能汚染があったばかりに誰も助けに来てくれませんでした。しかし、残っていた人たちにたくさん救われました。公園に避難したときには中学生がテントをはってくれました。水を分けてくれた人、避難する前にお米を置いて行ってくれた人、ガソリンを分けてくれた人、感謝でいっぱいです。

 

 学校が始まり中学生の娘がバレーボールで東北大会に出場し、その時泊まった旅館には他のチームもいて、その保護者の方々から「福島のチームはお風呂を一番最後にして下さい」と言われました。二本松での旅館では、お布団の湿気がすご過ぎて眠れなかったり喘息が起きてしまったりと大変でした。しかし、同じ地域に住んでいる男性が自分に子どもがいるわけでもないのに、一人で旗を持ってどんなに遠くても応援にきてくださりました。

 地震後、施設を出された祖母は亡くなりました。あの時、病院も開院していませんでしたし、国に見放された気持ちでした。そんな事もあってか長女は大学を諦め専門学校に行き現在看護師になり働いています。

 放射能汚染がなかったらどんなに復旧が速かったでしょうか。原子力発電所はやっぱり怖いです。あんな思いは二度としたくないです。

 

 きっとどこかであの時の経験したことを誰かに聞いて欲しかったのだと思います。

文章が下手ですみません。でも、この機会を与えて下さった事に感謝いたします。

ありがとうございました。

 

▲ ページ上部へ戻る