災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

私は当時小学4年生であった。

ペンネーム H. A.
原発事故当時に居住していた市町村 福島市
避難について
家族構成 父、母、自分、妹
年齢 20歳代


 私は当時小学4年生であった。ちょうど階段を下に下っているときに地震が起こったことを今でも鮮明に覚えている。私の当時住んでいた場所は中通りであったため、それほど震災の影響も受けず、原発事故による直接的な影響もなかった。しかし、そのような環境であったのにも関わらず10年たった今でも色あせることがないほどの衝撃だった。

教室から教員の指示により、雪がパラパラと降る校庭に避難させられた。小学四年生といえば精神は多少安定してくる年頃であろうと思えるが、いつも強気な友達が「もう家族に会えないかもしれない」と泣いていたのをみて自分も泣きそうになったものである。この時が私にとって地震の恐怖を最も感じた瞬間であった。

 先ほど私には直接的な被害はなかったと述べたが家族の中で大きく変わったことがあった。それは父親の単身赴任である。父は電気関係の仕事についていたこともあり、34年のスパンで勤務地が移動になることがある。そしてその次の勤務地が原町(現 南相馬市)の火力発電所であった。ちょうど火力発電所の役員が津波に飲まれ1人死亡してしまったところに我が父親が向かったのである。子供ながらに(そんな人が死ぬような場所に父親が行ってしまっても大丈夫なのか)と心配した。父親は毎週土日には帰ってきて何かしらの思い出話をしてくれた。そして、落ち着いてきたら今度は私たちが父親の単身赴任先に泊まりに行けることになった。そこには衝撃的な光景が広がっていた。船が陸地に乗りあがり横転していて、民家も半壊や全壊ばかりのものであった。私が小さいころによく遊んでいた公園など見る影もない。子供心ながらにどこかさみしさを感じた。父親がその場所に連れて行ってくれたのにはちゃんとした理由があり「今のこの光景を忘れてほしくなかったから」だそうだ。

 この上文に共通して言えることは子供の記憶にもしっかりと震災の記憶は残っているということである。もちろんそれがしっかりと事実を把握しどうするべきかわかっていなくても、記憶には残っているのだ。よって当時の出来事は子供にはトラウマや、精神的負担になりやすいのではないかと思う。今後南海トラフや、様々な災害がいずれ起こることだと思うが私たちは子供たちの記憶ではなく、心を守るために東日本大震災のことを忘却せずどうするべきだったのかを考え次に備える必要があるだろう。

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