災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

私が東日本大震災を経験したのは

ペンネーム O. R.
原発事故当時に居住していた市町村 青森県青森市
避難について 避難せずに家にいた
家族構成 父・母・姉・弟
年齢 10歳代


 私が東日本大震災を経験したのは、小学5年生の時だった。当時は、青森県青森市にいたこともあり、地震が発生したときはそこまで大きいものだとは思いませんでした。当時は新築で耐震性も高かったのでそこまでの揺れを感じることはありませんでした。しかし、停電は起こり普段起こるような地震ではないことを察しました。一晩はなにも情報が無い状態で、どのくらいの規模の地震か知ったのは、翌日でした。電気が復旧し、テレビをつけるとそこには、私の知らない世界が広がっていました。津波に巻き込まれる車や人の映像は衝撃的でしたが、原発事故については当時何が何だかわかりませんでした。

 青森市に住んでいた私にとっては、原発事故は関係ないことだと思っていました。しかし、その意識が変わる出来事が起こりました。福島から疎開してきた子が転校してきたのです。私のところに疎開してきた子は、何も変わらず生活を送っていました。しかし、ニュースを見ると疎開してきた子に対するいじめが問題になっていました。子どもが子供をいじめるというよりかは、大人が子供に誤った知識を入れ、子どもがいじめるという形であった。当時の私たちは、福島にいると危ないというくらいの認識しかなかったし、大人からとやかく言われなかったので、普通に接していました。今思うと、転校してきた子どもはいじめられないかやうまく馴染めるかなど、不安な気持ちであふれていたと思います。福島県から来た子供自身もどこまで理解していたのかはわかりませんが、小学校低学年の子などは理解せずに家を離れることになったと考えると、精神的な苦痛は大きかったと容易に考えられます。また、原発事故というものの重さを理解している年齢の学生は、より苦しかったのではないでしょうか。『当たり前』だったことがそうではなくなる瞬間、という事実が押し付けられることは、当事者にしかわからないと思います。

 大学生になり、地震のことを福島県内出身の友達に聞く機会があり、避難したという話を直接聞き、当時は感じなかった大変だったんだろうなと考えることが増えました。当事者にしかわからないことは多いと思いますが、そうでなかった人たちが原発事故の現実を知ることが今後役に立つでしょう。自分は関係ないと思っていた過去から、現在残されている課題、今後やれることをやっていくことが福島に来た意味があるのではないかと考えます。

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