災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

原発事故が起こった当時

ペンネーム Y. K.
原発事故当時に居住していた市町村 栃木県真岡市
避難について 無し
家族構成 父・母・姉・自分
年齢 20歳代


 原発事故が起こった当時、私は小学校5年生であった。私の住んでいた町が栃木県の南部に位置していたこと、そして、幼かったこともあり、原発事故の重大さはあまり理解できておらず、震災がもたらした数ある被害のうちの1つであるという印象しかなかった。しかし、母親がこの時期から私や姉が外で遊ぶことに神経質になり、「遊んできてもいいけど、○○分したら帰ってくるんだよ」というように制約を課してくるようになった。今思えば、母親は原発事故を重く受け止め、子どもたちに悪影響が及ばないようにそのようなことを言ったのだと思うが、当時の私は「なんでこんなに離れている所の事故を気にしているんだろう」「原発事故を建前にいじわるを言っているだけなのでは」と思っていた。

 震災を含め、原発事故に対して事の重大性を実感し始めたのは、中学生に上がってからである。私の通っていた中学校は、その生徒の殆どが同じ地区の小学校からの進学のため、メンバーは大きく変わらないはずだが、東北地方から転校してきた人がちらちらと見受けられたのである。その中の1人と仲良くなり、震災当時の話を聞いて、私はようやく事の重大性に気が付いたのである。

 月日が経ち、福島に進学した私は、大学1年生の夏にプレ・インターンシップで「あすびと福島」へ行くことにした。このプレ・インターンシップは強制参加ではなく、参加意思のある者が関心のある企業で1日勉強をさせて頂くというものだ。私は、企業説明にあった"福島の復興"という文字に惹かれて「あすびと福島」を選んだ。せっかく福島の大学に来ているのだから、福島のことを知りたいと思ったのである。

 プレ・インターンシップ当日は様々な場所を訪れたが、最も衝撃を受けたのは福島沿岸部の視察である。大熊町・双葉町の避難指示区域をバスの中から視察したのち、浪江町請戸地区に降り立ち津波被災地をこの身で体感した。商店街は閑散としており、店先に張られているままの2011年のポスターと相まって、まさに時が止まったような感じであった。

 令和になった今もなお帰宅困難地域は存在している。被災地見学の際に感じた衝撃を忘れずに、生活をしていきたいと思う。

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