災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

震災の時

ペンネーム おけ
原発事故当時に居住していた市町村 仙台市
避難について 近くの学校に避難
家族構成 父、母、兄弟
年齢 20歳代


 震災の時、私は地元の小学校に通っており、地震が起きたのはちょうど体育の授業中でした。私はその時、体育館の中にいました。体育館が揺れることで、聞いたこともない建物の軋む音が体育館に響き渡り、天井に付いていた照明は激しく揺さぶられ天井とぶつかりあうことで異様な音を響かせ、揺れに耐えられなかったものは落ち、体育館の中は混沌とした状況でした。揺れがおさまった後、生徒は教員に校庭へ避難するように指示されました。校庭の地面にはいくつもの切れ目ができており、そこから黒い液体が滲みだし、当時の幼かった私にはまるで世界が終わってしまったかのような光景でした。その時の私は何も考えることは出来ず、黒いしみのついた校庭を見つめていました。教室から避難してきた他の生徒も同様にあの光景を眺めていました。校庭は静まりかえり、さっきまでの混沌がまるで嘘であるかのような静謐な世界でした。その後は近くの学校に避難し、一晩を過ごしました。翌日からは、避難所の職員などによる炊き出しが行われていました。しかし、食料は以前として不足して、また社会システムは止まり、ただ人の道徳心のみが社会における秩序でした。それ故、誰かが人のいない店に侵入し商品を盗んでいたという噂はよく聞きました。しかし、時には自らの店に保存されていたカンパンを人々に配っていた人の話も聞きました。こういった状況下においては人の本質が表される事を当時の私は実感しました。

 いつものように学校で友達と遊ぶ、こんな日常が続いていくものだと思ってました。しかし、突然そんな日常は失われました。昨日までの平和な日常がいつまで続くとは限りません。平和とはとても薄くて脆い壁のようなものです。それは混沌とした世界と平和な日常を仕切ってくれる壁です。しかし、誰かがちょっとその壁を押せば倒れてしまうほど脆いものです。時には何もしなくても勝手に壊れてしまうこともあります。私たちが感じている平和は決して強固なものではないのです。私は平和の脆さを震災を通して実感しました。そして私がこの経験を通して伝えたいことはたった一つです。「平和は当たり前ではない」のだと。

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