災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

東日本大震災が起きた当時の私は

ペンネーム S. M.
原発事故当時に居住していた市町村 秋田県潟上市
避難について 避難はしなかった
家族構成 父、母、自分
年齢 10歳代


 東日本大震災が起きた当時の私は小学4年生で、地元の秋田に住んでいました。地震が発生した311日も普通に授業はありましたが、私はインフルエンザにかかって学校を休んでいたため自宅にいました。私が住んでいた地域の震度は4。立っていても揺れていることが実感できるほど大きく揺れていましたが、その時はまだ、その地震が各地に甚大な被害を与えているほどの大きいものである、ということを知りませんでした。揺れが収まって間もなくして、停電し電気が使えなくなりました。風呂にも入れず、その日はだいぶ早くに就寝しました。その日の夜、余震と思われる地震が発生しました。昼間よりも震度は小さかったのですが、二階で寝ていたということもあり、揺れを非常に大きく感じ、大きな恐怖を覚えたという記憶が今でも鮮明に残っています。

 次の日も相変わらず停電しており、家で聞いているラジオの情報だけが頼りでした。秋田県のほかの市町村で電気が復旧したという情報を聞いては、自分の地域はいつ復旧するのかな、などということばかり考えていました。しばらくして電気が復旧し、テレビをつけると他の地域での地震の悲惨さが伝えられていました。自分よりもはるかに辛く苦しい生活を送っている人たちがいて、それは、自分が住んでいる東北地方で起こっている、という現実を目の当たりにしました。

 電気が使えていないだけでも大変な生活なのに、実際に被災地で過ごしている人たちはガスや水道も使えなかったり、そもそも自宅で過ごすことができなかったり、自分よりももっと大変な思いをしているんだということを知りました。また、ご家族や友人の方が亡くなられたという人にとっては、自分には想像できないような辛さも抱えて生活しているんだと感じました。自分のことばかり考えていたことを情けなく思いました。

 また、福島県ではそれに加え原発事故も起こりました。原発事故による差別であったり、福島の食べ物に対する非難であったり、ただでさえ大変な思いをしている現地の人たちにとってはさらに追い打ちをかけられるような出来事であったと思います。今でこそ、そういった差別や非難はなくなってきてはいるものの、こういったことは今後二度とあってはならないと思います。

 家族や友人と何事もなく日常を過ごせているということが、何よりも大切で幸せであるということをこれからの世代にも忘れてほしくないなと感じました。

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