災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

私は、原発事故が起きた当時

ペンネーム H. T.
原発事故当時に居住していた市町村 福島県福島市松川町
避難について 避難していない
家族構成
年齢 20歳代


 私は、原発事故が起きた当時は小学4年生でした。地震はすぐに収まり、帰りの学活を終え、家に帰れると思っていました。東日本大震災が発生した時、急いで机の下に隠れ、地震が収まるまで机の下から出ることができませんでした。恐怖で泣いている子や不安で何も喋れない子もいて、自分もとても不安になっていました。母親が学校に迎えに来てくれたことで、やっと家に帰ることができました。テレビ番組はどこもニュースをやっていて、今どういう状態になっているのか分かりませんでした。津波が発生し、そして原発事故が起きてしまいました。私は、そもそも原子力発電所がどんなものなのかよく分かっていませんでした。放射能や放射線など聞いたことのない言葉がニュースに出てきて、ますます分からなくなりました。ただ、原発事故で良くないものが外に出てしまったのは、理解できていました。原発事故が起こってから、いつも通りの日常が変わってしまいました。まず、外で鬼ごっこや虫取り等で遊べなくなってしまいました。放射能や放射線がどこにあるのか分からなく、放射線を浴びてしまうと被ばくしてしまうと教えられ、外に出ることがとても不安でした。学校に行くために、外に出るときはマスクをして、なるべく草むら等に行かないようにしていました。さらに友達ともあまり遊ぶことができずにいました。毎日がとても不安で、明日にはこの状態が終わっているだろうと思っていました。しかし、全然よくなる気配がなくニュースで双葉町や浪江町で放射線が自分のいる町よりも、過酷な状態にあるということを知り、またさらに不安になっていきました。親戚の人も不安になっていて、放射能の話になると病院のレントゲンも放射線を使っているなどと過敏になっていました。ニュースのインタビューでも放射能が0になればいいと答えていた人がいて、本当にできるのかと疑問に思いながらも、自分の中で出来てほしいと思っていました。原発事故が発生してから私は、何がなんなのか分からず、すぐに事が収まり、いつもの日常に戻れると思っていました。原発事故による混乱は、私にとって恐ろしく不安にさせられる事態でした。自分に周囲にいる人に聞いても分からないことがあり、いつ終わるのか、どのくらい危険なのか分からないことが、私の中で混乱してしまったことだと感じました。

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