災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

震災当初

ペンネーム くろいの
原発事故当時に居住していた市町村 田村市
避難について 震災当初埼玉まで自主避難、同年4月に田村市に帰還
家族構成 父、母、兄
年齢 20歳代


 震災当初、私は小学4年生でした。ちょうど帰りの学活が終わり、みんなが帰る準備をし始めたころ大きな揺れが教室全体を揺らしました。すぐに皆自分の教室の机の下に隠れました。地震自体はよくあることで今回もすぐに収まるだろうと思っていました。しかし揺れは一向に収まらず非常に長い時間の間揺れ続けました。揺れがだんだん強くなっているかのようにも感じ、収まらない揺れに教室の皆は泣き出す人や大きな声をあげる人でいっぱいでした。私自身もこのまま揺れが強くなって建物が崩れてしまうのではないかという恐怖に襲われ、ここで死んでしまうのではないかと感じたことは今も深く覚えています。揺れが少し収まったころ、担任の先生の指示で教室の後ろに整列し私たちは校庭に避難しました。避難したのは大体3時ごろでその時の空は雲に覆われていました。校庭に避難が完了して数分経った頃に雪が降り始め、先生たちが保健室や職員室から慌てて毛布を取りに行ったことが印象に残っています。全員の人数確認が終わったあと、僕たちはそれぞれ帰宅していきました。自分はスクールバスで学校に通っていましたが、その時は親が車で迎えに来ました。
 私たち家族はTVで放射能が原子力発電所から漏れ出していることを知りました。マスコミやメディアの情報からそれがなんとなく危険なものだと知り。僕たち家族は当時埼玉に単身赴任していた父のアパートに自主避難しました。埼玉に向かう途中、ガソリンスタンドに長蛇の列ができており、燃料の補給にとても時間がかかりました。単身赴任先のアパートは一人暮らし用の小さな部屋でした。見知らぬ土地で不安でしたが、4月には福島に帰れるだろう、その時はまたみんなと遊べるようになるとそう思っていました。しかし、両親は放射能の存在を恐れ埼玉の学校に転校させようと考えましたが、私はそれに強く反対しました。当時、福島のナンバープレートのトラックがコンビニの入店を拒否されるくらい放射能への恐怖が民衆の中で強く存在し、自分もその転校先でそのような扱いを受けるのではないかと、幼稚園から一緒の友達ともう遊ぶことができないと考えるととても怖かったです。幸い、僕たちは4月に福島に帰宅し無事地元の小学校で5年生を迎えることができましたが、あの大きな揺れの恐怖、学校を転校しなければいけないのかと感じたことは一生忘れることができません。

▲ ページ上部へ戻る