災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

私は、東日本大震災当時

ペンネーム Y. H.
原発事故当時に居住していた市町村 福島市
避難について なし
家族構成 父・母・妹
年齢 10歳代


 私は、東日本大震災当時、小学4年生でした。そのときは、クラスで毎年恒例の年度末のお楽しみ会の準備をしている最中でした。机は教室の前に運んで作業をしていたので、担任の先生がみんなを教室の廊下側に集めて座らせ、生徒をかばう形で地震がおさまるまで待ちました。教室は3階だったので、揺れは大きかったです。クラスには水槽があったのですが、水槽の水もこぼれていました。地震がおさまったら校庭に避難しました。それから、雪が降ってきたので体育館に移動しました。天井からは時々砂が落ちてきました。しばらくして母が迎えに来て、帰宅しました。家の中も散乱していて、トイレも水漏れしていました。妹は当時小学1年生で、帰宅途中に地震が発生しました。すぐ近くのブロック塀が崩れてきたそうで、その下敷きになっていたら...と思うと、ぞっとします。屋根瓦が落ちてきた家もあったそうです。

 原発事故については、テレビでは放送されていましたが、当時は意味が分かりませんでした。なぜマスクをしたり、肌を覆ったりしなければいけないのか分かりませんでした。学校で、放射性物質などについての授業が始まり、だんだんとその危険性がわかってきました。線量計を身につけたり、甲状腺検査やホールボディ検査をしたりしました。母はとても健康面を気にしていたので、みんなが気にしない時期になってからも、私は学校でも1人だけマスクをつけ、外で遊ばないように言われました。夏でもアームカバーをつけていました。プールにも入れませんでした。給食の牛乳も飲めませんでした。特につらかったのは、5年生のスポーツ大会のときです。通常は5月に運動会が行われますが、その代わりに秋にスポーツ大会が開催されました。校庭でやる競技と体育館でやる競技がありましたが、私は外の競技は1人で廊下から見ていました。みんながとても楽しそうにしていて、うらやましいなあ、私もみんなに交ざって楽しみたいなあ、みんなは気にしていないのに何で私だけ外に出ちゃいけないの!?と思っていました。

 今は放射線を気にしていませんが、当時は自分だけみんなと違うのが嫌でした。私のように、放射線をとても気にしていた家庭もあっただろうし、避難をして避難先でいじめられた人もいたと思います。このように、原発事故によって、今まで通りの生活ができなくなってしまうのです。事故が二度と起こらないことを願います。

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