災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

あの日、卒業式の

ペンネーム S. R.
原発事故当時に居住していた市町村 愛知県一宮市
家族構成 母、父、兄、自分、弟
年齢 20歳代


 あの日、卒業式の予行練習が終わり教室でゆっくり友達と過ごしていた時、突然大きく縦に揺れた。隣の教室から先生が急いでやってきて「早く机の下に隠れて!」と大きな声で言った。少し怖かったけれど、私はすぐにおさまるだろうと緊張感もなく言われた通り机の下に隠れていた。震源地は三陸沖、東北の方だと聞いたが地名に馴染みがなく、遠いところで地震があったんだなあと他人事だった。家へ帰ると母親が茫然とニュースを見ていた。映っていたのは津波の映像だった。何度も避難を要請するアナウンサーの声もよく覚えている。すごく怖かった。そこから連日余震のニュースばかりになり、日本にとってとても大変なことが起こってしまったんだと感じるようになった。震災の被害にあった人々のことを考えると胸が痛くて何度か泣いた。そこから東日本大震災のこと、もっとも福島の原発事故について頭から離れなかった。高校三年生になり、進路を決める時にずっと胸に引っかかっていた福島へ行ってみたいと強く思ったため、福島大学に進学を決めた。すでに震災から6年以上経っていたが、福島と聞くとみんな複雑な顔をした。ニュースでは何年経っても震災で辛い思いをした人の特集ばかりを組んでいて暗いイメージを福島に持っていた。しかし実際は活気にあふれ穏やかな空気が流れていた。福島の悲惨なイメージ、放射線のイメージはニュースに植え付けられたものだと分かった。癒えない傷を負い、今でも苦しみ、苦労し続けている人がいることはもちろん分かっているが、多くの人が前を向いて生きていこうとしているように感じた。地元にいたらずっと気付けない感覚だったと思う。私は震災をほとんど被害がない愛知県で経験した。当時は本当に他人事だった。そして震災の被害にあった人々の役に立つことは一つとしてできなかったが、私自身人生に大きな影響を受けた。この10年、東日本大震災のことを忘れたことはなかったので、何か辛いことがあってもどこかで思い続けている人がいると色々な人に信じ続けて欲しい。無力な私にはそう伝えることくらいしかできない。

▲ ページ上部へ戻る