災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

2011年3月11日、

ペンネーム Y. A.
原発事故当時に居住していた市町村 福島市
避難について 避難なし
家族構成 父・母・弟
年齢 20歳代


 2011年311日、私は小学5年生で、地震が起きたのは学校でちょうど帰りの準備をしていた時でした。正直、大きな揺れが起きた時の記憶は覚えていません。教室のテレビがものすごく揺れていたことと、余震が続いた時のゴゴゴゴゴという低い地鳴りがずっと鳴っていたことはよく覚えています。いつもは強気な女の子が泣いていて、それを敵対する男の子が励ましていて、不思議なこともあるもんだなと思いながら、2階であるにもかかわらず床から響く地鳴りに不安を感じていました。小学5年生が2階で地鳴りにびびっていたのだから、きっと1階の12年生はもっと怖かっただろうと思います。

 幸い近くには海も、氾濫しそうな川もなく、我が家の被害は壁のひび割れと断水、机の上の教科書類が散乱しているくらいでした。テレビも食器棚も無事であったので被害は最小限でした。大変だったのは、買い物とガソリンです。ガソリンを入れるのに2時間も待ったのはあの日が最初で最後です。

 災害の基準は、基本的に自分なんだと思います。私は断水だけで済み、近くのおじいちゃんの家に井戸水があったので少しの不便だけで済みました。だから、なんとなくみんなそんなもんだと思ってしまう。けれど、少し離れた同じ県内、同じ東北で津波にあって命を落としている人が何人もいて、家に帰れない人が何人もいます。そこには昔の友達がいるかもしれないし、10年経って知り合った友達やその友達がいるかもしれません。

 テレビで津波の映像は何度も見たし、何年経っても見つからない人もいるとニュースで見て自然災害の恐ろしさを改めて感じました。私は被害が少なかったし、震災後に大きく生活が変わったことはほとんどありませんでした。被害にあいたいわけではないけれど、その経験がないことで、災害をどこか他人事のように思ってしまうところがあるのではないかと感じます。東日本大地震は教科書にも載り、忘れてはならない災害となっているけれど、その災害の恐ろしさを、地震だけでなく津波なども技術の発展により安全に体験する術が生まれれば良いなと思います。みんなが同じ基準で災害の恐ろしさを認識できれば、それがお互いの助け合いにも繋がっていくのではないかと思います。

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