災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

東日本大震災が起きた当時

ペンネーム O. M.
原発事故当時に居住していた市町村 岩手県大船渡市
避難について 数日小学校に避難、その後数週間祖父母の家に避難、その後は自宅に戻った
家族構成 父、母、妹
年齢 20歳代


 東日本大震災が起きた当時、私は小学5年生だった。当時住んでいた岩手県の大船渡市は、甚大な津波の被害を受けている。海から離れた実家には、近くにある河川から逆流してきた数センチの津波が到達したものの、浸水することはなかった。しかし、たった数センチの波であっても、家の周りには丸太や他の家の大きな植木鉢が流れ着いていたことや、近所のスーパーに車が流され突っ込んだという話から、津波の威力を思い知ることとなった。震災当日から数日間は、当日にいた小学校に避難していた。1階のホールで、隣に寝ていた友人と卒業式で歌うはずだった合唱曲を歌って気を紛らわしていたことが記憶に残っている。

 電気が戻ってからは祖父母の家に数週間泊まり、その後実家に戻ることができた。幸い、家族や友人たちは無事であった。しかし、周囲には家が流された人、親しい人を亡くした人が多く存在した。また、明確な被害がなくとも、全員が傷つき、疲弊していた。そのため、震災後は、家族の話と震災の話は忌避されてきた。中学、高校と年月が経つにつれて震災のことは話題にあがることがたまにあったが、その時に何をしていたかなど出来事は話すものの、自身の被害状況やその時の心情などは殆ど話したり聞いたことがない。

 未だに、震災とどう向き合うべきか迷う。現実だったことが、過去のものになって、物語へと変容していく。そのことに対して恐怖と危機感を覚え、震災に向き合って考えるが、自分のなかで認識を再構築する度に物語になっていく。この扱い方が正しいのか不安になる。それでも私は、物語になっても震災を覚えていたいし、知りたいと思う。福島大学に入学してから、震災に関する講義を取った。その際に、福島の震災の状況や、今でも続く不条理な偏見や差別、風評被害の実態を知り、衝撃を受けた。福島のことについてはある程度知っていたが、まだまだ知らないことが多いのだと実感した。偏見や差別は無知から生まれることがあるため、知ることは非常に大切だと考える。

 震災と向き合ったり、覚えていることが辛い人はまだ多いと考える。震災から時が止まってしまった人もいるだろう。そのような人たちに、無理に忘れるなとも進めとも言わない。だから、震災と向き合える人、覚えていられる人は、できる限り震災に対して考え続けて欲しいと願う。私も、今後も震災を知り、考えていきたいと思う。

▲ ページ上部へ戻る