災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

私は当時、小学五年生で

ペンネーム 熊谷
原発事故当時に居住していた市町村 宮城県角田市
避難について 角田市滞在
家族構成 父、母、妹、弟、祖母
年齢 20歳代


 私は当時、小学五年生で6時間目の授業を受けていた時だった。大きな揺れが発生しすぐさま机の下に隠れたのを覚えている。2日前辺りから同じ時間帯に少し大きな揺れが続いており、今回もそれぐらいの揺れだと思っていたが実際は全く違った。蛍光灯はバチバチとなり続け、机の上や中身までも床に散乱し、扉が閉まらないように支えている先生までもたっているのに一苦労の様子だった。小学生だった私は何が起きているのか分からず、ただ2分間の間、大きな揺れが収まること願っているばかりだった。泣き声や騒ぎ声、がたがたと揺れる窓ガラスがいつ割れて降ってくるのかと恐怖だった。無事揺れが収まり外へ出て、校庭に居ると親が迎えに来てくれて、そのまま家に帰った。道路にヒビが次々に入っていくのが車の窓からでも確認ができた。家へ着くとコンクリートはひび割れある程度だか破損していたが、家族全員が無事で安心した。しかしここから2週間の間、電気も水道も無い生活が始まることは予想もできなかった。携帯電話の充電も切れ、テレビもつかない、新聞も届かない、ラジオから流れる言葉は一つひとつ自分の心を傷つけるものばかりだった。大津波が発生した。原発事故が発生した。停電や断水がまだ続く。身元不明者が数多くいるなど益々不安が増えて言ったのを覚えている。

 震災から2週間が経ち、電気が復旧し、テレビをすぐさま付けるとそれは現実ではありえない映像ばかりが流れ非常に怖かった。原発事故によって放射線が宮城まで届くなどのニュースもあり、むやみに外には出られない環境が大変だった。福島県出身の人々が原発事故で引越しを余儀なくされて、引越し先で罵倒を罵られるというニュースも数多く見られた。非常に残念だった。あの東日本大震災を経験してようやく見つけられた安心を、体験しなかった人達に踏みにじられていくあの悲惨な様子は今でも辛く感じる。宮城県でも放射線量はかなり気にされており至る所に放射線量を測る機械が設置されていた。今では当たり前と感じる機械や災害時における対策は、やはり東日本大震災を経験して大きく変わったと感じる。あの大きな災害を通して支援偉大さが改めて実感できた。ボランティアのちからもとても大きく凄く嬉しかった。これからの人生、積極的にボランティアの参加等の支援に力を注げるよう努力していくことが大事だと理解した。

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