ペンネーム | : | 末永萌の夏 |
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原発事故当時に居住していた市町村 | : | 福島県南相馬市 |
避難について | : | 宮城県仙台市に 2011.3月22日~今まで |
家族構成 | : | 祖父、祖母、父、母、兄、自分の6人 |
年齢 | : | 20歳代 |
事故後、人に相談できないことが苦しかった。
私は2011の3月に南相馬市から仙台市へ避難したが、震災で被災をした経験、避難したくはなかったと思う瞬間があることを相談できる人は一人もいなかった。この相談の解決が、南相馬に帰るという事とイコールだと思っていたからだ。 私達のことを考えて避難してくれるように取り計らってくれた祖父母、生活を支えるために働いてくれてた父、一緒に暮らす中で拠り所だった母と兄、家族の誰にも泣き言をいうわけにはいかないと思っていた。ただでさえ大変な境遇なのに、余計な心配を掛けたら、家族が私のためにしてくれた判断が無駄になるような気がして、言えなかった。 久々に南相馬に残った友人に会っても、真夏にエアコンもないプレハブですし詰めで授業を受けていた、登下校でもガイガーカウンターが手放せない、外で運動なんてずいぶんとしていない、なんて話を聞いたら、自分の相談がちっぽけに感じて言えなかった。 事故前から関係がある人たちには、信頼できる人たちだからこそ、心配をかけたくないと思っていた。
避難先でできた友達には、不幸自慢のようになるんじゃないか、その時流行っていた震災いじめのネタにされるんじゃないかと思ったら、言えなかった。 学校にいるカウンセラーの先生にも、話を聞いて貰うことはできても、解決はしてくれないだろうと思ったら、言えなかった。 担任の先生なんかにも、もし話してかわいそうな子供と思われて、扱いを変えられるたらと思うと言えなかった。 事故以降で関係をもった人たちには、信頼できない人たちだと決めつけて、口にするつもりもなかった。
この不安な気持ちの厄介な点は、本質が今も変わっていない点だ。 どれだけ新しい友達と仲良くなっても、きっとこの経験を話したら引かれてしまう、態度を変えられてしまうという気持ちから一線を引いた態度になってしまう。 どれだけ親密な先生でも、震災時の気持ちを話したら、同情されてしまうと思うと、他のどんな事は話せても、震災については話す気になれなかった。人生で、何でも話せるような深い付き合いはできないと思うようになってしまった。
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もちろん震災によって受ける恩恵もあったが、それがこの損失を超えたと思えるときは、ずっとやってこないような気持ちで生きるしかないのだろうか。