災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

原発事故当時を経験して思うこと

氏名 藤長拓真
原発事故当時に居住していた市町村名 栃木県那須塩原市


 僕は震災発生当時、栃木県に住んでおり、原発事故の影響は福島県在住の方々に比べれば直接的な被害は小さかった。しかし、放射線関連の問題は僕たちの地域での生活に大きな変化をもたらしていた。

 まず、放射線が人体に与える影響が懸念され、外出を控えることが促された。サッカー場や公園などの野外公共施設では毎日(場合によっては午前と午後2回以上)放射線量の測定がされ、基準値を上回ると使用が禁止されるという状況だった。僕の身近な施設に関しては使用が禁止されるほどの量の放射線が検出されたことはなかったが、それでも周囲の大人たちがひどく神経質になっていたことは記憶に残っており、僕自身外出を控えるよう両親や先生に忠告された経験がある。

 

 次に、食べ物に関する問題である。僕の祖母は山菜やきのこ狩りを趣味としていて、山でとってきた食材が食卓に並ぶことは日常茶飯事だったのだが、原発事故発生後は自然の食材に含まれる放射線が危険視されるようになり、放射線量の測定が義務付けられたことにより、そういった山菜などが食卓に並ぶことは少なくなった。また、同じ理由から全国的に野菜や米、特に福島産の作物に対する不信感が高まっていたことも当時生きづらさを感じた要因の一つとして挙げられる。

 

 ここまでは僕が経験した事実を紹介してきたが、原発事故当時最も世間を混乱させたのは「放射線関連の迷信」である。実際に放射線量の検査をして無害であると判明したにもかかわらず、福島産であるという理由だけで有害であるといわれたり、放射線被ばくによって奇形児が生まれるというデマが流れたりなど人々の不安とそれを煽るような報道により誤った情報を信じ込み、加害者となってしまった人々は数多く存在した。僕が原発事故を通じて知り、伝えたいと思うことは冷静さを失わないことの重要性である。災害やそれに伴った事故を予測することはできても、起きてしまったことを覆すことはできない。その時求められることは適切な事後対処であり、冷静に対応できる判断力と正しい情報を取捨選択する力が必要となる。これらの能力を獲得するためには、実際に事故発生当時どのような状況だったかを知り事前に備えておくことが一番の近道だと考え、僕の経験とともに紹介した次第である。この文章が過去の事例を知る一助となればうれしく思う。

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