災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

あの日根付いた偏見

氏名 岸野 愛菜
原発事故当時に居住していた市町村名 宮城県 白石市


震災直後の記憶として鮮明に残っているものは「福島には近づくな」という言葉。幼い頃の私は理由も分からないままその言葉を聞き、ただ「福島は危ないところだ」という印象だけが根付いたことを覚えている。

震災当時、私が住んでいたのは福島県と隣接している宮城県白石市だった。津波の被害はなかったものの、揺れが激しく、他の市町村と同様に電気が通らない日々が続いた。そのため、しばらくは震災に関する情報がほとんど入ってこなかった。そのときには気分転換に近所の友達と外を駆け回っていても、誰にも何も言われなかった。しかし、電気が通りテレビが見られるようになると状況は一転した。多くの人が、すぐ近くで原発事故が起こっていることを知ったからである。小学生だった私は、その重大性をいまいち理解していなかったものの、周囲の大人の反応からとても大変なことだということだけは分かっていた。そしてそれ以来、私は何度も「福島には近づくな」という言葉を聞かされることになる。外で遊ぶことすらも極力控えるように言われていた時期もあった。

福島についてのニュースは原発関連のものが多い。おそらく、福島県外で生活をしている多くの人の印象なのではないだろうか。私はこの印象が、福島県外に住む人たちにとって、震災直後の私と同じ立場をもたらしているのではないかと危惧している。福島県について知っている情報はメディアが発信するものだけであるがゆえに福島と原発という言葉が対になる。原発事故の事実と、推測を含んだ不安が入り交じり、自分の中でぼんやりとした「避けるべき場所」という概念だけが福島に付される。きっと私がそうであったのと同じように、この感覚は自分が福島県で生活をし、福島県とそこで起こった原発事故の当時と今について知る機会がなければ一生変わらないものなのだと考える。私は福島大学で多くを知った。かつて放射線濃度が原因で出荷できなかった農作物は、再び福島ブランドとしてパワーアップして売り出されていることを知った。回復している産業がある一方で、10年以上経った今でも故郷に住むことはもちろん、一時でも帰ることができない人がいることを知った。帰れるようになっても、長すぎた避難生活の末に、帰るという選択ができなくなった人がいることを知った。単に「避けるべき場所」とすることが、どれだけ多くの人々の生活や努力を軽視しているかが分かった。

昨日まで何でもなかった場所が、ある事故をきっかけに今日から危険な場所になり、その先「避けるべき」場所になる。だから、避ける。それができてしまったのは悲しくも福島県外に住む「部外者になっていた」私たちであった。今からでも遅くない。少しでも私と同じような立場にあると感じた人は、部外者から一歩踏み出してみてほしい。

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