災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

「経験」の差は何を生むか

氏名 M. O.
原発事故当時に居住していた市町村名 福島県伊達市保原町


 原発事故が起こった日、すなわちあの大震災が起こった日は友達と遊ぶ約束をしており、帰宅して数時間も立たないうちに不安と恐怖を煽る激しい揺れが身に降りかかったにもかかわらず「えーじゃあ今日遊べないじゃん!」などと呑気なことを言っていたのを覚えている。その後、当時通っていた小学校の校舎が倒壊したことで一時は休校に追い込まれたが、運よく近くの中学校の一部を間借りしてそこで学習を続けられた。その時辛かったのは、どれだけ暑くても長袖長ズボン・マスク着用を義務付けられていたことぐらいだろうか。震災後も変わらない日常を過ごすことができた私は、自身が被災者であるという自覚はありつつもあまり意識することはないまま成長していった。

 約10年後、私は高校演劇の県大会に参加していた。多くの出演高の中で、浜通り地区の高校は震災や原発事故、復興を題材とした劇を行っていた。そういった作品は審査員にも受けが良かったのもあったのだろうか、部員の誰かが「まだ震災ネタやってるよー」と嘲笑交じりに行った。震災ネタだなんて失礼な、同じ被災者なのにどうしてそんなことが言えるのか。そう心の中で憤った私だが、その時はたと気づいた。部員の多くは、確かに浜通り地区の人たちと同じように大地震には遭ったが、津波も体験していなければ、帰宅困難者になったわけでもない。そして生意気にも怒りを覚えた、私自身も。

 私が言える立場にはないだろうが、「経験していない人」達がそれを「経験した人」達と同じように恐怖を感じ、悲しみを覚え、強く復興を願うことは非常に困難であることは残念ながら事実だ。もちろん「経験していない人」であることを理由に「経験した人」の立場の状況や心情を理解しようとしないのは怠慢にすぎず、無自覚に、そして無遠慮に「経験した人」を傷つける行為だ。ただ、非常に傲慢な願いではあるが、「経験していない人」が努力して共感・理解しようとしても、経験の有無やそれによる価値観の差を完全には埋められないことも忘れないでほしい。

 とはいえ、「経験していない人」と「経験した人」が到底分かり合えないという結論は出したくない。適切な支援をするためのみならず、互いに無自覚に傷つけるのを防ぐためには、互いの立場を知り、経験の差による価値観の違いを理解した上で、己の立場からどのような対応をするのが適切かを考えるべきなのではないかと考える。

▲ ページ上部へ戻る