災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

今でも鮮明に覚えている震災当時の記憶

氏名 石井 卓実
原発事故当時に居住していた市町村名 田村市


 2011311日、その恐怖は突然やってきました。春休み直前の小学4年生の時、うきうき気分で帰りの学活の時間を過ごしていました。すると地鳴りが聞こえ始め、教室全体が揺れ始めたのです。地震はよくあることであり、地震のたびに大きな声や泣いてしまう子もいるのですが僕は正直地震に対する恐怖はその時点まで一切ありませんでした。ですが、すぐにこの地震は普通の地震ではないと気が付きました。とても大きな揺れが長時間続き、もう何分机の下に隠れていたのかも明確に覚えていません。その際に私が感じていたことはこの揺れで学校が崩れてしまい、死んでしまうのではないかという恐怖心でいっぱいいっぱいでした、揺れがまだまだ続いている中、揺れが弱くなったタイミングで担任の先生の引率で校庭へ避難を開始しました。避難の途中でも泣いている子や大きな声を上げる子でいっぱいで皆が皆、冷静な判断ができていない状態でした。校庭へ避難が完了した数分後に雪が降り始め、先生たちが保健室へ毛布を急いで取りに行く様子は今でも印象に残っています。余震が続いている中、次々と生徒が親に迎えられて帰宅していきました。自分はスクールバスで通学していましたが、その時は親に迎えに来てもらいました。

 私たちはTVで原子力発電所から放射能汚染物質というものが漏れ出しているということを知りました。初めて聞く単語でしたが、メディアの情報や、汚染物質という単語からそれがなんとなく危険なものであるということを理解しました。なので、私達家族4人は埼玉に単身赴任していた父のアパートに自主避難をすることを決めました。高速道路で移動中、福島のICから乗り入れる車の数がとても多いことに気が付き、みんな自主避難をしているのだと思いました。とても苦労したのがガソリンの補給で、長蛇の列ができていて、ガソリンを入れるだけでも一時間近く並ぶことになっていました。

 何とか埼玉に無事につき、一安心することができましたが、私の父の車のナンバーが福島ナンバーなので、当時福島ナンバーのトラックがコンビニの入店をお断りされるなどの風評被害も存在していたので自分たちも周りの住民から何か言われるのではないかとても怖かったです。地震の恐怖だけでなく、放射能の恐怖におびえながら過ごさなければいけない日々が続いたのは忘れたくても忘れられない経験になってしまいました。

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