災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

原発事故についての感覚の変化

氏名 長谷川 一輝
原発事故当時に居住していた市町村名 茨城県桜川市真壁町


 私は原発事故当時茨城県に住んでおり、現在は福島大学に通学するため福島市に住んでいる。私は茨城に住んでいる時と、福島に住んでいる今では原発事故に対する自分の感覚や考えが変化したと感じている。

 東日本大震災が起こったとき、私は小学校で授業を受けていた。今まで体験したことのない大きな揺れにワクワクしたと同時に多少の恐怖感を感じたことを覚えている。机の下に隠れた後、校庭に避難し先生の支持を受けてすぐに下校となった。しばらく学校は休みと言われたり、同級生が泣いていたりしたことから下校の時まではとてもテンションが上がっていた。しかし、家に帰ると水道と電気が止まっていて、余震が危険だから遊んでいる場合でもないということがわかった。2日ほど経つと電気が復旧し、テレビを見て初めて津波と原発事故について知った。たくさんの人が亡くなり、避難生活を強いられ、放射線を浴びたことで差別される人がいるということに衝撃を受けた。

 それからまもなく、父親が救命活動のため福島に半年間派遣されることになった。父親は、帰ってきたら被災地がどんな感じなのかたくさん聞かせてやるといっていたが、帰ってきたときにはひどすぎて話す気にもならなくなっていたようだった。これらのことから、茨城に住んでいた高校生までの自分は、原発事故はどこか遠いところで起きた、目も当てられないような悲惨な事故という感覚だった。

 そのため、福島での生活をはじめたときは、原発事故や震災の話を福島の人にするのはやめたほうがいいと考えていた。しかし、福島で関わった人たちの中には、震災で家がなくなって実家のある福島市に避難してきたと自ら教えてくれた人や、原発事故について変な気遣いをされるのをあまり良く思わないと考える人がいた。

 大学の授業などで原発の話題がでるとき、県外の人と福島の人の間でお互いを気遣って意見を言いづらい雰囲気になることがあると感じる。原発事故は自分と同世代の人たちの多くも経験している身近な問題であり、福島の人が原発事故の被害を受けているからといって特別扱いをするのは一種の差別なのかもしれないと思う。原発事故で被災した人たちと、そうでない人たちの小さな心の隔たりのようなものがなくなればいいなと思った。

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