災害心理研究所 The Center for Psychological Studies of Disaster

福島の母たち・若者たちの心からの声を発信するプロジェクト

福島県に移り住んで

氏名 小川萌歌
原発事故当時に居住していた市町村名 みどり市


 わたしは震災当時、群馬県に住んでいた。群馬県北部の尾瀬の方では多少原発の影響を受けたようだが、わたしの住んでいた地域は津波や原発の心配もなく若干の建物の倒壊程度ですんだ。学校が大きな縦揺れで軋む音や同級生たちの悲鳴は今も記憶に新しく、あの恐怖は忘れがたい。停電や断水が数日間続いたが、避難を要することもなく日常はそう経たないうちに戻ってきた。幸運なことにその程度の被害ですんだ地域だった。しかしそんなわたしの日常にも変化があった。南相馬市から避難してきたという2組の家族と知り合ったのだ。避難先での仕事を求めてわたしの親と同じ仕事場に勤めだしたのがきっかけだった。同じくらいの子どもがいることから仲良くなりよく遊ぶようになった。当時は8歳だったこともあり「避難してきた家族」という印象は薄く「新しくできた友達」という認識だった。特に震災のことを意識することもなく遊んでいたが、そんな家族との付き合いも2,3年ほどで無くなってしまった。正確に言えば今でも連絡先を持っているしたまに年賀状が届くこともあるのだが、1組の家族がもともと住んでいた場所とは異なる地域の福島へと帰っていったため疎遠になってしまった。そのとき初めて、「新しくできた友達」のことを「被災して避難してきた子」として認識した。あくまでこの家族が群馬にいるのは仮の状態であって本来いるべき場所、帰りたい場所があることを知った。当時一度も引っ越しすらしたことが無かった自分にとってはこの概念が衝撃的だった。

 そんなわたしは今、何かの縁で福島県に引っ越してきた。津波や原発の被害が甚大であった浜通りではなく、中通りに住んでいるため震災の影響を意識する瞬間はあまり多くない。しかし日常の至る所に確かに存在していることをふとしたときに気づく。どこにでもあるような小さな公園の中に放射線量が表示されていたり、駅の前には気温を示す電光掲示板と一緒に放射線量を示す電光掲示板が併設されていたりする。わたしが震災の影響を意識することなく日常を送れているのはこういった一つ一つから始まる数々の復興への努力があったからだろう。だというのに、未だ世間に根付いた福島県やその他被災地へのネガティブな印象は拭いきれていないように感じる。福島へと越してくる際、身内に本当に大丈夫なのかとしきりに尋ねられ、福島の米は食べないように言われた。心配はありがたかったが、悪意のない分それがひどく悲しかった。今の福島が抱える問題はこれだと思う。被災地への無関心ゆえに生じる偏見、漠然としたマイナスイメージ。調べればすぐに米のみならず福島県産の食品が国からの安全基準を満たして販売されていることや、福島県の大部分の地域が基準内の放射線量であることがわかる。知ろうと思えば福島県その他被災地が行ってきた復興への努力を知ることができる。心配や恐れを抱くのなら、それらの努力をふまえて福島県の「今」を知ってからにして欲しいと切に願う。

 群馬県を離れて初めて「故郷」のありがたみを知った。どんなに福島県で過ごしてもきっと自分がいるべき場所、帰りたい場所だと思うのは故郷である群馬県だろう。そして福島県に住んで初めて、仮住まいの離れがたさを知った。いずれわたしも群馬県に帰ると考えると安心するが同時に、数年過ごした地を離れるのかと思うと寂しくもある。あのとき福島県に帰る決断をした家族も、群馬県に残ると決断し今も群馬で暮らしているもう1組の家族も、決断の方向が違っただけでどちらも大きな決断だったのだ。そこに決断力や意思の強い弱いはなく、あるのは思いの違いだけだ。帰るという選択も残るという選択も、福島県へと移り住むという選択も、どれを選ぶにしろ偏見や謂れのない悪意によって制限されないと良いなと思った。

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